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島原から世界に向けて
「お互いさまですから」


























島原ボランティア協議会(SVA)の活動の歩み

(T)普賢岳噴火災害と島原ボランティア協議会

 平成の島原大変といわれる普賢岳噴火災害に対処すべく結成された島原ボランティア協議会の前身である雲仙岳災害ボランティア協議会では、災害ボランティアとして具体的にどのような活動を行うべきが、発足当初はまさに手探りの状態であった。
 事務所として、空き家となっていた古い旅館を無償で提供していただき、拠点となる場所はできたが、何から手をつけてよいのか悩む状態であった。とにかく行動を起こさなければということで、まずはできることから始めようと、火山灰で使用不能となっている公衆トイレの清掃を行った。
  この行動により、雲仙岳災害ボランティア協議会は広く認知されることとなり、その後行政サイドから種々の協力を要請されるようになった。
 まず要請されたことは、救援物資の仕分け作業と避難所への配送作業であった。6月3日の大火砕流直後から、島原市と深江町には救援物資が大量に送られてくるようになり、限られた職員だけではとても対応できない状態であったためボランティアに対して協力要請があった訳だが、物資の仕訳作業ではボランティアとして多くのことを学ぶこととなった。
その後は、被災地救援の活動が連 日続くわけだが、災害ボランティアとして何をすべきかという思いは、常に心を悩ませる問題であった。そこで考えられたことが『行政の手が届かない分野に、民間だからこそできることをやらねばならない』ということであった。
 そこで、避難している人達の要望を調査しようということになった。アンケートをとろうという意見もあったが、避難生活で疲れている人達の手をわずらわせないよう、簡単な聞き取り調査程度に止めようということになり、調査を実施した。
 その結果、体育館での避難生活で最も困っていることはプライバシーが守れないことであり、噴火が収まらず長期化の様相を呈していた避難生活では最もつらいことであった。雲仙岳災害ボランティア協議会では、早速、市内及び周辺町、諌早市、長崎市の空室情報を取りまとめ避難所に配布した。この活動は、避難している人達への心強い励ましとなった。
 その後は、救援物資の仕分け作業以外にも、避難所への慰問活動や子供達との交流活動等の業務を行うようになるとともに、遠方から見える民間ボランティアの団体や個人の受け入れ業務を行うようになる。
 次いで8月下旬には、島原市内の40の各種団体による『生き残りと復興対策協議会』が発足され、雲仙岳災害ボランティア協議会もその一員となった。この会では、災害対策基本法をより強化した特別立法の制定を求めるための一千万人署名が実施され、雲仙岳災害ボランティア協議会は署名用紙の集計業務を担当し、翌年2月までの間に500万人に上る署名を集計した。
 当然のことながら、署名の集計活動と平行して、各種のボランティア活動は継続して行われたわけだが、6月下旬からは避難用の仮設住宅も順次準備され、8月下旬には避難生活にもそれなりのペースが生まれ、わずかながら落ち着きを見せはじめた。これに合わせて、雲仙岳災害ボランティア協議会の役割を終了しようという考えも生まれたが、署名活動の継続やボランティアの受け入れ等もあり、活動を終了することはできなかった。
 人々が長期化する災害と向かい合って行こうと考えるようになり、避難生活に落ち着きが見られるようになていたころ、再び大火砕流が深江町側に発生し、大野木場小学校を焼失した。これにより、人々の心には再び大きな不安が広がった。
 雲仙岳災害ボランティア協議会では、このころから避難生活者の不安を解消するための活動を行う必要性が話し合われたが、その方法に苦慮し実現は困難であった。
しかし、何らかの方策を模索しようと、その後の活動では仮設住宅の訪問を強化したり、以前検討されたアンケート調査を実施したりして、避難生活者の心の動きの把握に努めた。あわせて署名の集計活動も継続して行うとともに、災害に強い新しい地域づくりの必要性も話し合われた。
 そんな中で、災害から復興へという考えが自然に発生し、11月には会の名称から災害という文字を除き新しい出発をしようということになり、会の名称が雲仙岳災害ボランティア協議会から『島原ボランティア協議会』へと改められた。
 そして、署名活動が一応の終結を見た平成4年の3月から『こころの電話相談室』を開設し、避難生活者の話し相手となる活動を開始した。この活動に先立って、電話の応対の専門的指導を受け、スタッフは技能者として『こころの電話相談室』を運営した。
 4月に入ると、普賢岳南東側斜面に規模の大きな火砕流が頻発し、人々の不安はさらにつのるばかりであった。溶岩ドームの成長はいまだ止まらず、千本木からもその巨大さが見て取れた。しかし、5月になると溶岩ドームの成長が少し弱まり、しばらくは落ち着いた状態が続いたが、それでも小規模な火砕流は連日何十回と発生し周辺に火山灰を降らせた。
 このころの活動は『こころの電話相談室』を中心としたものであったが、その後梅雨期に入り小規模な土石流が頻発するようになると、島原ボランティア協議会では前年の土石流の経験から土石流被害が発生したときの対応が検討された。 さいわい6〜7月には大規模な土石流は発生しなかったが、8月8日には水無川周辺に土石流が氾濫し、十数件の民家に被害が発生した。次いで13日には、さらに広範囲への土石流の氾濫があり、100世帯以上の民家に被害が及んだ。地域の住民は避難生活をしていたため、人的被害は発生しなかったが、土砂に埋もれた住宅は個人レベルではいかんともしがたい状態であった。
 そこで、島原ボランティア協議会では、かねてより検討していた土石流の土砂出し作業を実施した。高校生やサークル、クラブ、各種団体、個人など延べ1,393名の協力を得て、人海戦術で作業が進められ、大きな成果を得ることができた。
 その後も島原ボランティア協議会 の活動は続き今日に至るわけだが、ここで島原ボランティア協議会と他地域の災害とのかかわりについて触れてみたい。


(U)北海道南西沖地震による奥尻島の津波災害

平成5年7月に発生した奥尻島の津波災害は、島原ボランティア協議会にとって大きな衝撃であった。島原ボランティア協議会では、他地域で災害が発生した場合にどのような対応をすべきかが早くから検討されていた。具体的には、全国からのご支援に対する御恩返しとして、他地域の災害に協力できる態勢を整えなければいけないということや、大規模被災地に殺到するボランティアへの対応方法も経験者の立場からマニュアル化しておく必要があることなどが検討されていたたが、地元の災害がいつ終わるとも知れない状況の中では、そこまで手が回らなかったのが実情であった。
 そのような折りに奥尻島の津波災害が発生したのである。未だ他地域への協力態勢は整ってはいなかったが、まずはボランティアの必要性があるのかどうか、とにかく現地を調査しようということで2名の調査者を現地に派遣し、被害状況とボランティアの必要性について調査した。
 その結果、被災現地の状況には圧倒されるものがあったが、大規模にボランティアの協力を必要としている状況ではないことが分かり、調査者は2日間の調査を行った後、仕分け作業を2日間手伝って引き上げることとなった。その後、会を代表して宮本会長が現地に入り、奥尻島内の民間の代表者にボランティアの注意点などを伝授し奥尻島での活動を終了した。


(V)阪神・淡路大震災

 平成7年1月17日の大震災報道を見たとき、その災害規模のすさまじさに驚くとともに、都市型災害であることに多くのボランティアが殺到することが予想された。島原ボランティア協議会では、すぐに現地の情報収集を行い、先発隊を組織して被災地神戸へと向かった。
 予想したように、神戸市内にはすでに多くのボランティアが集まっていたが、その多くは災害ボランティア初体験の者がほとんどで、自分の食料や寝るところさえままならない状況であった。
このようなボランティアは、被災地にとってはある面で迷惑な存在となる。このようなボランティアたちをコーディネートすることが島原ボランティア協議会の役割だと考えられた。しかし、他地域でいきなりそのような活動を行うことは注意すべきであり、本来コーディネートは地元のボランティアが行うべき業務である。
 そこで、島原ボランティア協議会としては、まず、長田区の救援物資集積所において、救援物資の仕訳の方法や物資の搬送に関する注意点などを実際の作業を通じて説明する活動に従事し、物資の仕分け作業とともに現地調査を行いながら、地元ボランティアにコーディネーターとして適当な人材を探すこととした。
 その後、長田区にはボランティアどうしの連絡会が組織されるにいたり、ボランティアの中にコーディネートの必要性が認識されるようになったため、島原ボランティア協議会は独自の拠点を灘区に移し、神戸大学の学生ボランティアとともに活動を行った。
 ここでの活動は、神戸大学のグラウンドに仮設のお風呂を作り、大学の体育館に避難しておられる方たちに提供することであった。その後も島原からは順次交替要員を派遣し、拠点であるボランティア・テントを中心に、被災者との触れ合いを行うなどの活動が7月に撤退するまで続いた。


(W)その他の災害とのかかわり

 島原ボランティア協議会では、ほかにも長崎県対馬沖の重油流出事故の現場や、鹿児島県の水害、高知県の水害の現場に出掛け、調査や救援活動、激励を行っている。
 いずれの現場でも多くのボランティアが活躍しており、災害ボランティア活動が広く認識されてきたことを感じさせられる。このような民間の支え合う心が、より強い力として発揮されるような態勢づくりも必要であることが痛感される。
 
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