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島原から世界に向けて
「お互いさまですから」


























島原ボランティア協議会(SVA)の生い立ち

平成2年秋から始まった普賢岳の噴火は次第にその様相を変え、翌年の5月には『溶岩ドーム』の出現により火砕流が発生するようになった。その後、溶岩ドームは急速に成長し、これに伴い火砕流の規模も大きくなり、6月3日にあの忌まわしい大惨事を引き起こした。
 想像もしなかった噴火災害のすさまじさに、島原市と深江町の住民約10,000人が体育館等での避難生活を強いられ被災地はただただうろたえるばかりであった。
 そのような状況の中で、ふるさと島原半島を自分たちの手で守ろうという宮本秀利氏の呼びかけに、直接的被害を受けていない(降灰による被害はあった)地域の若者が集結して、6月4日に参加登録者数が数百名にのぼる『雲仙岳災害ボランティア協議会』が結成されたのである。
 このように大規模なボランティア団体が、大惨事の翌日には結成できたという背景には、この団体の母体となった島原半島の地域活性化集団『十七会』の存在があった。島原半島には、昭和50、各地に小グループが多数生まれた。島原半島は一周100qの島の形をしているがこの中に17の行政区域があり、「ムラおこし」グループの活動もおのずと地域内の活動に止まり、横のつながりに乏しいものであった。そこで、地域毎の有意義な活動をさらに大きな輪に広げようと、昭和61年に『島原半島はひとつ』の合言葉の元に結成されたのが『十七会』であった。この会が、島原半島内の地域活性化グループの取りまとめ的役割を果たす活動を続けていたことが、『雲仙岳災害ボランティア協議会』の急速な結成を実現させたのである。
 
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